ミセス・ロウのシンガポール/石垣島デュアルライフ

50代から二拠点生活。都会&田舎で暮らす。

人間はみんないつか、何かで死ぬ。

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シンガポールのロックダウン(政府はサーキットブレーカーと呼んでいる)解除まであと5日になった。

 

大規模寮に住んでいる外国人建設労働者の感染対策に失敗したため、シンガポールは感染者数が現時点で3万人超えというアジアでも有数の感染国になってしまったけれど、一般市民の感染はとても少なく、コロナウィルス感染により死亡した人も現時点では23人しかいない。なので、ウィルスに対する危機感よりもロックダウンによる精神的・経済的閉塞感の方がずっと大きいというのが正直な気持ちだ。

 

欧米と違って死亡者が少ないから、という理由もあるけれど、私にはどうもこの感染症に対する恐怖感が沸き上がってこない。

 

最初は違った。1月に中国で感染が爆発して武漢が閉鎖された頃には、この病気のことはほとんどわかっていなかった。本当に怖かった。自分がかかって死ぬかもしれない恐怖より、10歳の娘が感染して死んでしまったり重篤な後遺症が残る可能性が否定できなかった。旧正月休み明けには学校を3日間休ませた。

 

しかし、この感染症で大部分の20代未満の子供たちが深刻な被害を受けないことがほぼ確実になってきた現在、私の恐怖心は消えた。私や夫は50代半ばなのでもう十分それぞれの人生を生きてきた。2人とも一番多忙だった時期を過ぎて現在は子育てや趣味が中心のセカンドライフを送っている。社会的にはいてもいなくてもたいして影響がない者たちだ。子供さえ助かれば私たちはどうでもいい。

 

現在は深刻な持病もないし、もし今日コロナウィルスに感染して、数日、もしくは数週間で死んでしまうとしたら、ひと昔前にみんなが憧れていた「ピンピンコロリ」死じゃないだろうか? 

 

ガンで闘病して数年にわたり苦しい治療を繰り返すわけでもなく、糖尿病や腎不全で不自由な生活を長く続けなければならないわけでもなく、心臓のバイパス手術や脳溢血後のリハビリも不要で、認知症みたいに周囲に迷惑をかける必要もない。私としては、コロナ死こそ理想の死に方じゃないかと思うのである。

 

とつらつらと考えたのは、このロックダウン中に、私の理想とはかけ離れた闘病生活を送らざるをえない可能性に直面させられたからだ。

 

発端は胸部の超音波検査で左胸に9㎜程度のしこりがみつかったことだった。

 

私は50歳になった頃から更年期障害の症状緩和のためにHRT(ホルモン補充療法)を受けているため、1~2年おきに子宮がん検査(パップテストと超音波)と乳がん検査(マンモグラフィと超音波)が義務づけられている。これまでの検査でも何度か、子宮や乳房にこのような小さなおでき状のものがあったことはあった。しかし、今回は少し大きかったため乳がんの生体検査を受けることになったのだ。

 

大きいといってもマンモではみつかない程度。たまたま超音波検査でみつかったから大ごとになっただけで、自分の体の見えるところ(皮膚の上)にはこのくらいの大きさのおできなど何個もある。年齢を考えたら当然だろう。

 

そんな検査しなくてもいいです、といちおう医者には言ってみたけど「ではHRTは続けられない」と返されてしぶしぶ受けることにした。女性ホルモンを飲まないとたちどころにホットフラッシュが復活して体調が最悪になるからだ。

 

結果、悪性の細胞はみつからなかった。しかし、良性のおでき細胞もみつからなかった。

 

そこで医者が言うには、「この結果は超音波の画像と一致しない」ので、採取した生体組織はこのおできの細胞でない可能性が高く、とすると悪性であるかもしれないので、この近辺の部位を直径5㎝ほどごそっと切除して検査する、というのである。

 

おいおい、ちょっと待ってほしい。悪性の細胞がみつからなかったのにそんなにたくさん切っちゃうのですか? ほんの一つまみの生体細胞を針で採っただけでも1週間以上胸が痛くて掃除やヨガもできなかったのに、ベニスの商人じゃあるまいし、5㎝の塊を取ったりしたら数か月はまともな生活ができない。また、一度取ったとしても、おできだからまたできる可能性も高い。こんなことを一生繰り返すのですか?

 

さんざん医者と議論(口論に近い)したあげく、もう一度超音波検査を受けておできが6㎜になっているのを確認してもらい、消えた3㎜分は検査した生体の中に入っているはずで、そこに悪性細胞がなかったのだから手術を受ける必要がないことを主張し、今後、2,3か月おきに定期的に超音波でおできが大きくなっていないかチェックすることを条件にHRT継続を認めてもらった。

 

ひとまず事なきを得る。

 

いくらクオリティ・オブ・ライフをキープしたい私でも、明らかに乳がんであるのに手術や抗がん剤治療も受けずにがんが全身に広がっていくのをじっと傍観したいわけではない。ただ、悪性であることも証明されていないのに、悪性である可能性がなくはないから、という理由で不必要な手術を受けさせられたり、余計な検査を強制されたりするのが嫌なのだ。

 

「将来乳がんになる可能性が高いから」と乳房を取ってしまったアメリカの女優さんがいたけれど、私だったら絶対にしない。虫垂炎になってしまうかもしれないから、といって盲腸を手術で取ってしまうのと同じじゃないかと思うからだ。盲腸になったらなった時のこと、がんができたらできた時のこと、その時に最善を尽くせばいい。

 

とはいえ、生活習慣病は違う。

 

これは長い時間をかけてだんだん病気が悪化していくものであって、糖尿病、高血圧症、心筋梗塞症はもちろん、一部のガンや認知症や腎不全なども含めて、高齢者の病気の半分以上は運動習慣や喫煙や食事が原因になっている。そしてそれらの習慣が最終的に死因になる。

 

私の祖母は76歳で心不全を起こして入院し翌朝亡くなった。数えの29歳で未亡人になり、女手一つで事業を営みながら3人の子供を育て、還暦で引退した後は習い事に旅行にと好きなことと美味しいものを存分に楽しみ、亡くなったときは「大往生」と言われた。

 

おばあちゃんっ子だった私は後追い自殺したいほど悲しかったが、今思うと彼女にとってはこの死に方はとても良かったと思う。好きなものを食べて、好きなことをして全うする人生より幸せなことがあるだろうか?

 

しかし、昨今は心不全で人はなかなか死なない。医学の進歩だ。私の周囲にも何人かいるが、バイパス手術を受けたりペースメーカーを埋め込んだりして助かる。もちろんそれまで通りの生活はできず、若くして仕事を辞めざるをえなくなった人もいる。

 

脳梗塞も同じ。以前は死に至る病だったけれど、現在では半分以上が助かり、その後何十年も生きる方々も少なくない。その中には半身不随になる方もいれば、長年リハビリを続けられる方もいる。

 

医学の進歩は素晴らしいことだ。しかし、そのおかげで私たちは「ピンピンコロリ」死から年々遠ざけられている。もちろん、重い病気をして障害を負っても、何度も手術を繰り返す生活を送っても、人が生きるということは、生きているというだけで素晴らしい。ただ、それは永遠に続けられることではない。

 

人はいつか、必ず、何かで死ぬのだ。

 

世界のコロナ対応を見ていて思うのだが、ほとんどの国やほとんどの医者やほとんどの人たちは、常に「人を絶対に死なせないために何をしたらいいか」を考えて行動しているような気がする。死ぬことは、そんなに悪いことなのだろうか?

 

そう考えていない人たちもいるようだ。

 

コロナ対策で他のヨーロッパ諸国とまったく違う対応をとったスウェーデン。ロックダウンはせず、リスクの高い高齢者の外出規制もしなかった(高齢者との接触を避けるようにという指導は行っている模様)。基本的には、自分の命を守るためにどうするかは自分で決めてください、という姿勢で、この対応は高齢者が自力で食べられなくなったときに、点滴をしたり胃ろうを作ったりして延命をしない、というこれまでのこの国の医療方針とも一致している。

 

確かに天寿を全うして老衰で死ぬのは人として一番幸せなことだろう。

 

でも、多くの人はそれほど幸運ではない。日本を含む多くの先進国で平均寿命と健康寿命の間に5歳程度の開きがあることからもわかるけれど、自分の思うようにならない身体を抱えて、死にたくても死ねない人がたくさんいるのだ。

 

腎不全で人工透析を受けている方は透析治療中も病状が進行し、大半が5年前後で亡くなるそうだ。腎臓移植を受ければこの方々の寿命はさらに伸びるのだけれど、あえて手術を選択しない方々も少なくないという。週3回、数時間にも及ぶ透析治療を続けながら、この方々がご自分の死と対峙し受容していかれる過程を私は尊敬する。

 

ある方がTwitterで、一人の高齢者の方が夕刻に担架で救急車に運び込まれる写真を載せられて「これが彼が見る最後の夕陽かもしれない」という意味のことを書いていらっしゃった。私はその夕陽が美しくて本当に良かったな、としみじみ思った。この世で美しい夕陽を見て人生を終えられるなんて、なんと素晴らしいことだろう!

 

人生は終わりがあるから美しい。

美しい終わりを迎えるために、私は今日を生きたいと思う。