ミセス・ロウのシンガポール/石垣島デュアルライフ

50代から二拠点生活。都会&田舎で暮らす。

不可解不思議な日常の新しい比呂美

 

伊藤比呂美が100%人間ではない何か別のものに変わった。

 

比呂美は私よりちょっと先の人生を凄まじい形相で進んでいった人である。産み、産まされ、育て、育てさせられ、噛みつかれ、噛みつき、愛し、愛され、傷を負い、傷を負わされ、世話をし、世話をさせられ、聞き、聞かされ、満身創痍で振り返らずにずんずんと歩いていった人である。

 

思春期の子供たちには牙をむかれて閉じこもられ、母と葛藤し父の寂寥に相槌を打つために何度も何度も太平洋を横断し、夫に嫌味を言われながらも下の世話をし、いろいろな性格の犬たちと一緒に南カリフォルニアの荒地を歩いた。

 

そして、時間が経って、子供たちも親たちも夫も犬たちもいなくなった。

 

いま、比呂美の傍にいるのは流れるように毎年替わっていく無数の学生たちと、一緒に熊本の河原や山を歩く怯えた犬のホーボー、彼女と犬の前に突如現れては抑揚のない声でつぶやく古老たち、様々に同じ境遇を生きる何人ものヨーコさんたち、河原や山や家の中にはびこり繁茂しては死んでいく植物たち、そして彼女とホーボーがやってくると森を鳴らして歓迎する山の神。

 

これまでの比呂美の詩(エッセイでも小説でも比呂美が書くものはすべて詩だ)で繰り返し描写されてきた、くっきりとした自我と輪郭と匂いをもち、比呂美の存在そのものに戦いを挑んできた子や男や親や犬たちはもう登場しない。代わりに半透明な体であちらとこちらを行き来する、カオナシのようなものたちばかりが現れては消えるのだ。

 

彼らは比呂美自身の中に住んでいる。鏡を見れば母の姿が映り、後ろから話しかけないよう、はっきりと発音するよう繰り返し要求した父や夫の言葉が、聞こえにくくなった耳に甦る。山の匂いの中に昔の男の匂いがたちのぼり、ポーランドのお菓子から忘れたポーランド語がぽんぽーんと形をもって飛び出してくる。

 

比呂美の日本語さえ、indigenousな日本語ではない何かに変質している。私の中で彼女の日本語は容易に英語に変換されてしみこむ。でもその変換された英語は、南カリフォルニアの赤い皮膚と麦藁のような髪の人たちが話す言葉ではなく、私の周囲にたくさんいるタミル語やマレー語や広東語や福建語やタガログ語がもともとの自分の言葉である人たちと同じ種類の質量と温度をもった英語だ。

 

比呂美はどこに行ってしまうのだろう? 本人もそう慄いているのかもしれない。だから書くのだ。

 

Hey, you bastards!  I’m still here! 

 

と。

 

この本を読み終わったばかりなのに、次に比呂美が見せてくれるであろう世界をすでに楽しみにしている。