ミセス・ロウのシンガポール/石垣島デュアルライフ

50代から二拠点生活。都会&田舎で暮らす。

『「影の総理」と呼ばれた男 野中広務 権力闘争の論理』菊池正史著 ~ 戦後自民党保守政治の終焉

野中広務さんという方は、現役時代には自民党の「影の総理」と呼ばれ、旧弊な密室政治の象徴という印象がありましたが、引退後はかなり彼に対する見方が変わりました。

 

その一つのきっかけとなったのがこちらの本。 

ちょうど10年前に発行された韓国籍の辛淑玉さんと被差別部落出身の野中さんの対談本です。差別される側の人間としての野中さんの肉声は胸に迫るものがありました。

 

本書でもまだ政治家になる前、旧国鉄時代に受けた差別のことが書かれていて、その経験が野中氏が政治家を目指す大きな原動力の一つとなったことが指摘されています。

 

もう一つ、私の野中観を変えたのはやはり彼が2003年に小泉元総理大臣との政争に敗れ、政治家を引退してからの小泉政権に対する糾弾の姿勢です。彼は徹底して小泉元総理のふりかざす数の論理に抵抗し、議論の必要性を訴えました。

 

しかし、当然ではありますが世論を味方につけて多数の小選挙区を掌握した圧倒的な小泉元総理の前では野中氏の訴えは負け犬の遠吠えにしか聞こえず、彼が理想とした多様な思想信条の持主が混在する雑居世帯としての自民党は「ぶっ壊された」まま現在まで復活することはありませんでした。

 

その意味で本書は、野中氏をキーに戦後から現在に至るまでの自民党保守派の変遷を描いた自民党史でもあると言えると思いますし、著者の意図もそこにあった気がします。

 

本書では、野中氏も深く関わった自民党の転換点をいくつか詳細に描写しています。

 

1.田中角栄の失脚と「経世会」合議制政治の始まり

戦後「エリートは間違うから、強烈なリーダーシップをもつエリートに政治を任せてはいけない」という信念のもと、戦争体験をもつ野中らが参集したのが田中派であり、岸元総理や中曽根元総理などの戦中エリートたちは、国民の声もありどうしてもこの牙城を崩せなかった、という経緯が語られた後、戦中戦後もその図太さと繊細な気配りで生き抜いた、田中角栄という希代の政治家についての人間的な魅力についてもかなりのページを割いています。

 

しかし、ロッキード事件で田中が失脚。新しく派閥を立ち上げる竹下と金丸に50代後半にして衆院に初当選したばかりの野中が合流。自民党の世代交代の流れに乗り、竹下派「経世会」を中心に盤石な自民党合議政治が始まります。

 

2.小沢一郎の離反と数の論理の台頭

しかし、上記のような多様な政治的信条や意見の違いをもつ政治家の合議政治の弊害として、物事を「決められない」政治へのジレンマが描かれます。

 

調整重視の「和の政治」では、たしかにリーダーの理念や理想は妥協を余儀なくされる場合もある。根回しもあれば、かけひき、取引もある。カネが動くことだってあっただろう。それでも、一部のエリートが独善的に暴走すること、狂信的に理念に執着することの方がはるかに危険なのだ -- これは貴重な戦争の教訓だった。この教訓は、野中に至る保守本流の遺伝子に組み込まれて継承されてきた。

 

「決められない政治」への苛立ちに油を注ぐように世論の怒りを煽ったのがリクルート事件。これをきっかけに竹下元首相が辞職し、台頭してくるのが田中角栄の秘蔵っ子と言われた小沢一郎。

 

与党自民党最大派閥のプリンスならではの駆け引きや金の扱いの熟練した手管に加え、「積極的平和主義」を唱えて自衛隊の海外派遣を推進し、アメリカとの日米構造協議でも交渉役となって市場開放を推進。そして小沢の最大の政治的成果は「一票でも多くとれた方が勝ち」となる小選挙区制の導入でした。

 

私も当時のことはよく覚えていますが、「金権政治の根源は選挙に莫大な金がかかる中選挙区制にある」という論調が大半で、小選挙区になれば派閥のドンから配られる大きな金を必要としないクリーンな選挙ができる、とマスコミで喧伝されていました。

 

しかしその結果どうなったかというと、以前の中選挙区なら仮に党から公認を受けなくても2位、3位で当選できていた保守系候補が議席を確保できなくなり、小泉内閣が行ったように「刺客」を送られて落選したり、安倍内閣が行っているように公認を得るために党内で反対意見を述べられなくなってしまうという土壌が醸成されたわけです。

 

金権政治問題では竹下のみならず金丸も辞職。小沢一派は自民党を離党。小沢は「改革派vs.守旧派」というわかり易い対立構造をメディアに喧伝し、国民はこれに熱狂していきます。その結果として小沢は自民党を離党して日本新党ほか「非自民勢力」をまとめあげ1993年に細川内閣が成立。発足直後は7割前後の高い支持率を誇りました。

 

下野した自民党では野中が小沢批判を展開し、公明党攻撃を端緒に徹底的にこの新政権と闘います。

 

3.自社さ連立政権における日米安保と自衛隊の公認

小沢主導で成立した細川内閣があっさり倒れた後、野中が暗躍して自民党、社会党、新党さきがけによる連立政権が成立。社会党の村山総理大臣が誕生します。

 

自治大臣兼国家公安委員長に就任した野中は、自民党のドンとしての貫禄をまとい村山首相を支えます。その中で日本を代表する総理大臣となった村山首相が認めざるをえなかったのが「日米安保、自衛隊、日の丸・君が代」。戦後一貫して反対してきた社会党の総理がこれを認めたことにより、日米安保も自衛隊も晴れて合憲とされたわけです。

 

4.公明党との連携

1998年には再び自民党の首相となった橋本総理が辞任して小渕内閣が発足。ここで野中は官房長官になり公明党との距離を縮めた他、仇敵小沢とも和解しねじれ国会を乗り切る算段を整えます。

 

しかし、「ブッチホン」で知られた自民党内の気配りと調整の象徴ともいえる小渕首相は2000年4月に小沢との2人きりの会談直後に脳梗塞で倒れて帰らぬ人に。

 

しかし、この内閣で野中がパイプを作り公明党と連携したことが、現在まで続く自民・公明連携内閣の基礎となったといいます。

 

5.小泉内閣から安倍内閣へ。数の政治の始まり。

小泉氏が首相に初当選するのは2001年。その立役者は野中と対立し「野中さんの政治は時代が求めているものと合わなくなっていた。改革するエネルギーがないと思った。そして自分は、野中さんたちの古い政治を改革しなければならないと思った」と語る平沢勝栄。そして、父を裏切った経世会メンバーに積年の恨みを抱き続けてきた田中真紀子。

 

ここに「古い永田町の論理vs.改革を求める国民」という、小泉内閣を最後まで支える構造が成立します。そして当時の守旧派の最大の実力者が野中広務でした。

 

最終的に野中は反小泉勢力をまとめることができずに小泉内閣が誕生。ここに至って、戦後続いてきた自民党の調整政治が終焉し、「一票でも勝ったものに敗者は従う」という超合理主義が誕生したと著者は語ります。

 

この流れが現在の安倍内閣まで続いているのは言うまでもないでしょう。

 

これ以外にも、規制緩和により「自己責任で強く生き残っていける企業や個人を理想化」し、自衛隊の海外派遣を実現し、「超」がつくほどの「日米協調」路線をひた走った、という論評もまったく的確です。

 

そして小泉内閣が改革路線を断行する中、野中広務は2003年に政界からの引退を表明するのです。

 

            *****

 

 

政治とは時代につれ、人々の変化につれ、生き物のように変わっていくもの。野中氏が政治家として生きた昭和から平成の50年以上に及ぶ年月もまた、人も政治も変化していった期間でした。

 

汚職で失脚した方々をも含め、歴代の首相たちや野中氏をはじめとした数多の政治家たちの大部分を突き動かしてきた原動力は、決して個人の私利私欲への渇望ではなく、日本国民の幸福な生活の実現という高邁な理想であると私は信じています。そうでなければあれほど割に合わない仕事をする理由がみつからないからです。

 

しかし、その理想が現実と噛み合うかどうかは、個人の努力や能力を超えて、その時代の潮流に任せる以外にないといえるでしょう。

 

戦後74年。あと数週間で平成という時代が終わる現在、野中広務のような暗い戦争の時代を生き延びてきた政治家がいなくなり、私たち選挙民もまた、大正デモクラシー時代の余韻をひきずる昭和2年に自殺した芥川龍之介が感じた「ぼんやりとした不安」以外にはっきりとした困窮の予兆を感じているわけではありません。

 

このような時こそ、もう一度日本の政治の過去を振り返って総括し、私たちが今後どこに向かうべきなのかを一人一人が反芻して考える機会を持つ必要があるのではないでしょうか。本書はその好機を与えてくれる良書です。