ミセス・ロウのシンガポール/石垣島デュアルライフ

50代から二拠点生活。都会&田舎で暮らす。

『平成史』保阪正康著 ~ 平成最後の日に振り返る30年

平成最後の日です。

 

日本から遠く離れたこの熱帯の島にいると、今日この日に日本の空気がどういうものなのかまったくわかりませんが、平成元年の昭和天皇の大喪の礼の日のことを思い出しています。

 

私は25歳で、社会人3年目で、みぞれまじりの冷たい雨が降る日でした。

 

昭和天皇が亡くなったのは1989年1月7日。平成の天皇である明仁天皇は同日に即位されているわけですが、平成と改元されたのは翌8日。

 

昭和天皇の大喪の礼が2月24日。4月1日に初めての消費税がスタート。首相が竹下、宇野、海部と変わって10月には田中角栄が政界引退を表明。55年体制が終焉を迎えつつあり、経済はバブル景気真っただ中で、すべてが慌ただしく過ぎていきました。

 

即位の礼をはじめ華やかな行事は翌年11月ですから、ちょっと時間が空いています。ですので平成になったばかりのこの頃は、とにかく日本中が昭和天皇崩御を悼む自粛ムードに包まれていたことしか記憶にありません。

 

海外に目を向けると、6月4日に天安門事件があり、11月10日にベルリンの壁が崩壊して、12月3日にはパパ・ブッシュ大統領とゴルバチョフ大統領が会談し冷戦終結を発表。と、やはり歴史が激しく動いていました。

 

そしてこの年、手塚治虫、松下幸之助、美空ひばり。昭和を象徴する各界の大御所がその生涯を終え、ベトナム戦争に従軍してルポルタージュを書いた開高健も12月に亡くなりました。

 

 

これまであまり意識したことがありませんでしたが、保阪正康著『平成史』を読んで、この大きな歴史の潮流を改めて見直しました。平成という時代は「第二次世界大戦後の世界」の終焉という動きの中で始まっていたのです。

 

個人的にも、平成は私の青年期から中年期にちょうどかぶっていました。バブル経済はこの後まもなく収束し、否応なく日本人がアジアを主として国外に出ていかざるを得なくなったのも平成という時代でした。

 

私が初めて香港を訪れたのが90年、シンガポールが91年、香港に留学して中国語を学び香港・マカオ・中国で仕事をし始めたのが94年、最大の顧客に「中国で供給できないのなら今後おたくの商品は買わない」と言われて中国に工場を作ったのが2000年、シンガポールに移住したのが2010年と、決して少なくない数の日本人や日本企業が歩んだ道を、私自身もたどりました。

 

いっぽうで、それまでの私の「天皇」に対する考え方も、平成の30年間でまったく違ったものになりました。

 

それはやはり、明仁天皇と美智子皇后が、この30年間続けてこられたことの結果だったのではないかと思います(もちろん保阪氏や半藤一利氏らによる昭和史研究の成果の影響も大きいのですが)。

 

昭和天皇は「戦前と戦後を生きた天皇」でした。国内外から戦争責任を問われつつも最後まで沈黙を守り、日本全国で慰霊の樹を植え続けて戦後40年以上を過ごされました。

 

 昭和前期は、軍事指導者が主導権を握ることで、戦争という手段を選ぶよう、天皇は恫喝されたといいうる。天皇はためらうのだが、しかし軍事指導者はその手段(もっとも彼らにはその手段しかなかったわけだが)をゴリ押ししている。そして戦争は始まった。(中略) 昭和中期(占領期)、昭和後期(独立回復後)の昭和天皇について、その心中を各種史料で推し測っていくと、戦争という<手段>を選んだことを悔い、今後は決して選ばないことを自らに誓ったことが窺える。平成の天皇は、その誓いを忠実に受け継ぎ、さらに自らの御代には、皇后とともに日本国内だけでなく、外国の戦地にも赴き、追悼と慰霊をくり返している。そこに昭和天皇と平成の天皇との間の連携があるとみていいだろう。

 

ここに書かれているように、平成の天皇夫妻は昭和天皇の遺志を引き継ぎ、戦争で亡くなられた方々の追悼と慰霊に全身全霊をかけて取り組まれます。2005年にお二人がサイパンのバンザイ・クリフで深々と頭を下げ、鎮魂のお祈りを捧げられた映像は今でも目に焼きついて離れません。

 

そしてさらに、戦争で亡くなられた方の遺族や引き揚げ者など、生き残って困難な境遇におかれた方々や、自然災害の被害に遭われた方々、障害を抱えて生きる方々など、さまざまな社会的弱者に言葉をかける慰問を続けられたのです。

 

私たちにはすっかりおなじみになった、天皇、皇后両陛下が被災地に赴かれ、膝をついて被災者の方々とお話される姿。昭和の時代には決して天皇皇后のこんなお姿を見たことはありませんでした。

 

戦後、国民の「象徴」となった昭和天皇は現人神であることをやめて人間となりますが、著者はその「象徴天皇」制を国民の9割を占めるサイレントマジョリティが支持しているのではないか、と書きます。そして、明仁天皇が発せられてきた、国民を象徴する人間としてのメッセージに対し、私たち国民もまた、答えを返すべきではないかと。

 

昭和天皇が間違いを犯し、国民との距離ができてしまった原因は2つ。1つは抵抗を重ねたにも関わらず軍部に押し切られて戦争を始めてしまったこと、そしてもう1つは軍部に神格化されて国民との距離ができ、その結果として国民を特攻や玉砕に象徴される戦いの「戦備」のように変えてしまったということ。

 

明仁天皇はこの父君の教訓を受けて、ことさらに国民との距離を縮めようとしてこられた。その結果として私たち国民は、「平らかに成る」時代を享受することができたのではなかったのでしょうか。

 

最後になりますが、私自身の明仁天皇・美智子皇后体験。

 

直接お姿を見たわけではありませんが、毎年夏を軽井沢で過ごしていた大学時代の恩師の別荘を訪ねた際、何度か天皇皇后陛下が乗られた車と警備の車の隊列(といっても1,2台のごく少数ですが)に遭うことがありました。恩師が言うには、命からがら満州から引き揚げた後入植し、浅間山の灰に覆われた貧しく痩せた土地をゼロから開拓してきた大日向村の人々を毎年訪問されていたのだそう。

 

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あれだけハードな日々の公務をこなされ、束の間のご休息のときにも、社会から忘れ去られた方々のことをまず第一に慮ってお立ち寄りになり声をかけられる、その姿勢に胸を打たれました。

 

明日からは晴れて上皇となられる平成天皇と美智子皇后が、ほっと肩の荷を降ろされ、今度はご自身のために「平らかに成る」時を過ごされるよう、心よりお祈りしています。