ミセス・ロウのシンガポール/石垣島デュアルライフ

50代から二拠点生活。都会&田舎で暮らす。

一度失われたら二度と取り返せないかもしれない言論と表現の自由

先月16日、表現の自由を教える授業で予言者モハムンドの風刺画を生徒に見せた歴史教師のサミュエル・パティさんがイスラム過激派とみられる容疑者に首を切られ、殺害される事件が発生しました。その後もニースのカトリック教会で3人、リヨンではギリシャ正教の聖職者が殺害されるといったテロ事件がフランスで連続して起っています。

 

さらに一昨日にはオーストリアユダヤ教シナゴーグ等が銃撃を受ける事件が発生。ヨーロッパ各国がイスラム教過激派テロリストの脅威に再び曝されています。

 

これに対し仏マクロン首相は殺害された教師の葬儀で「フランスは風刺画を諦めない」と発言。言論・表現の自由を改めて擁護したために、日本を含む多くの国でイスラム教徒によるデモが発生しました。

 バングラデシュの反フランスデモに4万人 仏大統領の風刺画擁護に反発 - BBCニュース

 

加えてトルコのエルドアン大統領やパキスタンのカーン首相など、イスラム教国のリーダーたちがマクロン首相を公に非難。マレーシアのマハティール前首相にいたっては「Muslims have a right to be angry and to kill millions of French people for the massacres of the pastイスラム教徒は怒り、過去の虐殺に対して数百万人のフランス人を殺す権利がある)とツイートし、フランス政府の猛烈な抗議により削除されました。

 

この現状について「宗教戦争だ」とか「だからキリスト教の国はダメだ」と論評される方々もおられますが見当違いもいいところで、これはフランスが宗教の影響力を排して死守しようとしている徹底した「言論・表現の自由」を守れるかどうかの、文字通り人々の命を賭した闘争です。

 

フランスで表現の自由が重要視されるのは、1789年からのフランス革命で、人々の自由な意見表明が王政とそれを支えたカトリック教会という権力を倒したという自負があり、国の根幹をなす権利と受け止められているからだ。1881年には冒瀆(ぼうとく)罪を廃止。宗教を批判したり、その象徴を傷つけたりしても罰せられない。今も冒瀆罪があるイタリアやスペイン、ドイツなどと比べ、フランスの自由を特徴付けている。

 

仏の人間科学者、リュシー・ブルゲ氏は仏紙への寄稿で「(表現、冒瀆の自由は)数世紀をかけた闘いの末に、民主主義が独裁者から勝ち取ったものだ。このおかげで、強力な王権や神々、タブーに挑戦することができた」と解説する。特に保守層では、こうした批判精神が自制に追い込まれることへの抵抗が強い。

フランス「冒瀆する自由」とイスラム教 相次ぐテロの先にあるのは…共存か衝突か - 毎日新聞

 

マクロン首相がどれだけ批判されようと自分の発言を堅持する背景にはこのようなフランスの歴史があります。EU最大のイスラム教徒人口(全人口の約9%)を抱えながらもキリスト教徒はおろかイスラム教徒の宗教感情にも配慮することなく、フランス的価値観を守ろうとしているのです。

 

この首相の姿勢に対し、フランス人イスラム教徒も大方が賛意を示しています。

フランス国内のイスラム教徒団体は「フランスでイスラム教徒は迫害されていない」と声明を出し「また、多くのイスラム教徒が冒涜(ぼうとく)とみなす預言者ムハンマドの風刺画について、フランス法ではそうした風刺画を「憎む権利」も認められていると述べつつ、フランスは風刺画を描いたり宗教を風刺したりする権利を放棄しないとするマクロン大統領の姿勢を支持すると表明した。」と突っ込んで言及しました。

フランスでイスラム教徒は「迫害されていない」、仏ムスリム評議会 写真16枚 国際ニュース:AFPBB News

 

私はイランやチュニジアからフランスに移民した女性監督の映画を観たことがありますが、 イスラム教国の過酷な現実下で育った彼女たちが自分自身を自由に表現できるフランス人になってどれだけ精神的に解放されたかが活き活きと描かれており、上記のイスラム教徒団体の声明にもリアリティを感じます。(ちなみにこれらの映画の上映はフランス大使館が後援しており、映画などの文化を通じてフランス的価値観を世界へ輸出することに仏政府が熱心なのもわかります)

 

ところで、私は今回の一連の事件の発端となった仏シャルリー・エブド社の風刺画により、2015年にイスラム教過激派のテロリストが銃撃事件を起こした事件直後に下記のブログ記事を書いています。

blogos.com

当時はFacebookのプロフィールアイコンがフランス三色旗で染まるほどフランスを擁護する人々が多かったのですが、今回は反応がだいぶ違い、イスラム教国のみならず世界的に「マクロンイスラム教徒の宗教感情に配慮しておらず、フランスの言論の自由は行き過ぎなのではないか」という批判がどちらかというと優勢なように見受けられます。

 

その一例として、カナダのトルドー首相が「表現の自由は常に守っていかなければならないが、限度がないわけではない」と発言したのに対し、2019あいちトリエンナーレで「表現の不自由展・その後」開催し政治も巻き込んだ大論争を引き起こした津田大介氏が賛意を示され、Twitterで話題になっています。

 

いっぽう、私自身はこの6年間で逆に考えが変わりました。現時点の私は、マクロン首相とフランス国民が掲げるフランスの言論・表現の自由を100%支持します。それはこの間に「表現の不自由展・その後」を含め、言論・表現の自由に限度が設けられるとどういう事態が発生するのかを示唆する事件が各国で起こったからです。

 

例えば、こちらです。

www.newsweekjapan.jp

 

今回もマクロン首相とフランスを真っ先に非難しシャルリー・エブドに風刺画を描かれるなど話題のトルコのエルドアン大統領。昨年私がトルコ旅行をした際にはエルドアン長期政権になってどれだけ物理的、精神的に抑圧された状態が続いているか、私と同年配や少し若い女性たちが口々に語っていたのが印象的でした。

 

というのも、イスラム教国でありながら長期にわたり自由な世俗主義を選択して発展してきたトルコで、エルドアン大統領は厳格なイスラム主義に回帰する政策を次々に打ち出し、それに反対する人々を片端から排除してきたからです。

 

ファッションや音楽、映画といった文化をはじめ言論・表現の自由謳歌してきたトルコ人たちにとって(一部のトルコ人は女性を含めイスラム教徒でありながらお酒もごく普通に飲みます)、現在の状況は苦痛以外の何ものでもないと言います。

 

2015年10月には、トルコ公衆保健局の職員だったビルギン・チフチが、エルドアンを『ロード・オブ・ザ・リング』に登場する「ゴラム」になぞらえた罪で起訴された。エルドアンを「白熱電球」と呼ぶのも、エルドアンの顔写真をダーツの的にするのも、トルコの刑法では「アウト」だ。今月23日には、エルドアンを「詐欺師」と呼び、旧ソ連の強権的中央アジア国家キルギスタンなどにトルコをなぞらえ「エルドアニスタン」と皮肉ったオランダ人ジャーナリストのエブル・ウマルもトルコ当局に身柄を拘束された。

 

そしてエルドアン大統領はドイツの法律を逆手にとって自分を批判したドイツのコメディアンまで訴えたのです。

 

記事によれば、この時点で「大統領に対する名誉棄損の罪で訴追しているケースは1800件を超える」そうで、現職の大統領が自国の国民や外国人を手当たり次第に訴える、という俄かには信じがたい状況が現在のトルコの日常です。

 

フランスで問題になっているのは現段階ではイスラム教という宗教だけですが、人の感情を傷つけるのはよくないという考え方が敷衍されれば、容易にトルコのような事態は他の国でも起りうるでしょう(実際にドイツで起きたように)。

 

私が10年以上住んでいるシンガポールでも、ここ数年間で言論・表現の自由とは何かを深く考えざるをえない象徴的な事件がいくつも起りました。中でも最も話題になったのはシャルリー・エブド襲撃事件と同じ2015年に起きた事件です。

 

2015年3月。建国の祖リー・クワンユー元首相が亡くなった直後に当時16歳のブロガーで、過去に映像の賞を受賞し天才少年の誉れ高かったエイモス・イー君がYoutubeにある動画を投稿しました。

 

タイトルは「Lee Kuan Yew Is Finally Dead! (ついにリー・クワンユーが死んだ!)」。故リー元首相をキリストに例えてどちらも" power-hungry and malicious but deceive others into thinking they are both compassionate and kind"(権力に貪欲で悪意の人であったが、自分たちは同情的で親切な人物であるかのように人々を騙した)と酷評。

 

また、同時にマーガレット・サッチャー元英首相と故リー元首相がアナル・セックスをする画像も投稿。キリスト教徒を侮辱し猥褻な表現を公表したと複数のキリスト教徒から訴えがあったとして(匿名で実際誰がしたのかは確認不可能)エイモス君は逮捕されました。

  

事件後、エイモス君は「いくらなんでも16歳の思慮分別がない少年なんだから大目にみてやるのが大人の対応だろう」という世論を受けて一時は保釈されたものの、紆余曲折をたどった裁判で実刑判決を受け4週間服役。さらにイスラム教を冒涜したとして2016年に再逮捕され、6週間服役しました。

 

反逆児エイモス君も二度の服役を経てさすがにまいったのか、アメリカ合衆国に脱出して2017年には政治亡命が認められます。(この際シンガポール法務省シンガポール政府の立場としての声明を出していますが、ここではリー元首相を批判した件には具体的にいっさい触れられておらず、宗教を冒涜したことのみが語られています。)

Statement on Amos Yee

 

私もこのビデオを見ましたが、若干言葉遣いが悪いのを除けば拍子抜けするくらい正統な政府(及び故リー・クワンユー元首相)批判で、この程度のものは日本やアメリカではごく普通に目にしますし、キリスト教批判の表現にいたっては(私自身キリスト教徒ですが)16歳の少年としてはなかなか上手いじゃないかと感心するほどでした。上述のエルドアン大統領の告発と同様「この程度で実刑なのか?」というのが率直な感想です。

 

さらにこれに続いて起きた2017年の事件でも、言論・表現の自由について再度考えさせられました。

 

この事件の核心もやはり故リー元首相。しかし今度は彼自身への批判ではなく、彼が生前住んでいた家を巡っての息子リー・シェンロン首相とその弟妹との争いでした。

 

この家には故リー・クワンユー元首相とリー・シェンロン首相の妹のリー・ウェイリン医師が住んでいました。元首相の没後、現与党People's Action Partyが生まれた歴史的場所であるこの家をリー・クワンユー記念館として再生することをリー・シェンロン首相が計画。これに対し、弟のリー・シェンヤン氏と妹のリー・ウェイリン医師は「父を神格化しようとする試みでリー・クワンユー元首相はそれを望んでいなかった」と反発。Facebook上で非難の応酬を繰り広げました。

 

この兄弟喧嘩の最中にやはりFacebook投稿をしたのがリー・シェンヤン氏の長男(リー・シェンロン首相の甥)でハーヴァード大学助教授のリー・シェンウー氏。Facebook友達限定で、ニューヨークタイムズ紙が掲載したシンガポールの言論検閲についての記事リンクを貼った上で“Keep in mind, of course, that the Singapore government is very litigious and has a pliant court system” 「もちろん気をつけるべきだ。シンガポール政府はとても訴訟好きで、(政府の意向で)どうにでもなる司法制度をもっているから」という文章を含むポストを投稿します。(友達限定ポストなので全容は不明)

 

シンガポール裁判所はこのポストの内容を問い質すためにリー氏に出頭を求めましたが、氏はこの命令を無視。今年になって法廷侮辱罪が確定して15,000ドル(約115万円)の罰金の支払いを命じられました(支払わない場合は2週間の実刑)。

 

リー氏はこの判決はプライベートの表現を抑圧するものであり罪状は認めないが、政府の攻撃から自分自身と家族を守るために便宜的に罰金は支払う、と述べるとともに、この3年間、シンガポール裁判所から数千ページにわたる書類が送られてきてFacebookの友達全員の名前を明らかにするよう執拗に要請されたと明かしています。

Li Shengwu does not admit guilt but will pay $15,000 fine for contempt of court, Singapore News & Top Stories - The Straits Times

 

このように言論・表現の自由が国民の当然の権利でない国においては、自分の友人のみに語ったつもりの言葉であっても、公に国や為政者を侮辱したとして処罰の対象になりうるのです。このようなシンガポールの現実は、言論や表現の自由が保証されている日本からやってきた私にとっては、俄かには信じ難いことばかりでした。そして言論や表現の自由というものがどれほど貴重なものなのか、実際に肌で感じることができたのです。

 

ですから今の私には、マクロン首相をはじめフランスの人々が連続テロという試練を引き受けてでも何のために闘っているのかということがよくわかります。ごくごく当たり前に存在し享受している権利を得るためにどれだけの多くの人々が犠牲を払ったかを、フランスの学校では子供たちに教えています。テロリストに殺された教師もまた、フランス革命で命を落とした多くの名もない人々と同じく、この権利を守るために命を捧げたフランス人の一人なのです。

 

一度失ってしまった言論や表現の自由は、それを取り戻すまでに大変な時間がかかる、もしくは二度と取り戻せないかもしれないものであり、何ものにも代えがたい国民の財産です。

 

夥しい血が流された歴史を経てフランスの人々が手に入れた言論・表現の自由という権利を何としてでも守ってほしい、とやはり同じく先の戦争で多大な人命の犠牲を払ってその権利を手に入れた日本人の一人である私は思います。