3者が共鳴し合う物語の作り方 ~ Stories that Matters 2019: Myth
最近気になっているアップルi-phoneのCM。
ゴミゴミした大都市の下町らしき場所で、ネズミが頭上を這いまわるシーンから始まり、工事をする人、タクシーで運転手に大声で交渉する人、子供をあやす若い母親、自転車に乗って急ぐデリバリーボーイなどなど。
一体誰が主役? と気になって見続けていると、最後に若い女性が出てきて笑顔でポーズ。Depth Control機能を使ってスワイプすると、これまで登場した人々や背景がすべてぼやけて見えなくなってしまう、という演出です。
私たちの日常は非常に散文的でとりとめがないので、誰かを主人公としてピックアップしたらそこに物語が構築され、その他の人々はすべて背景に溶けこんで無形化してしまう。けれどスワイプし直して別の人物を選んで同じ作業をすれば、まったく違う物語が作れるのだ、というメッセージをこのCMは訴えている気がします。
私が昨晩、聴きにいったパネル・ディスカッションは「Stories that Matters 2019: Myth」というテーマで、写真や映像といったビジュアルアートの中にある物語とアートそのものとの関係性について非常に刺激的な議論が繰り広げられました。
特に面白かったのは、Robert Zhao Renhui氏の「物語」創造のコンセプトについて。
Zhao氏はシンガポール生まれのビジュアルアーティストで、写真を中心に立体のインスタレーションまで幅広く活躍されています。
ディスカッションではシンガポール国内の造成中の土地の荒涼とした風景や、オーストラリアのクリスマス島でプラスティックの容器を殻にして生きるヤドカリなど、環境問題を意識した写真作品が紹介されました。
彼のスタイルはアップルCMとは真逆で、風景を主観で切り取らずにできるだけ見たそのまま全てをフレームの中に入れることだそう。被写体の全体像を丸ごと取り込んで提供することにより、アーティストの主観に頼る小さな物語ではなく、その写真を見る人のバックグラウンドから派生してくる大きな物語を想起させるように意図していると言うのです。
これは非常に示唆に富む斬新な考え方だと思いました。
故橋本治氏が以前、『桃尻娘』シリーズを執筆中、登場人物たちが勝手に動き始めてどんどんストーリーができていった、という話をしていたのを読みましたが、似たような経験は、ある程度の長さの小説や戯曲を書いたことがある人の多くにあると思います。詩の場合も同じで、ある言葉を選ぶとそれと共鳴するように次の言葉が沸き出してくることが多々あります。
哲学用語を使うと、作者と書かれる物が現象し合っている。その結果として文学作品が生まれてくる、とでも言うのでしょうか。
これは視覚芸術でも音楽や舞台芸術でも同様だと思います。俗に「神がかる」という表現がぴったり当てはまりそうです。
Zhaoさんは、ここにさらに「見る人」という三点目のポジションを加えます。「作る人」「作る人に作られたもの」に加えて三点目の重心が加わることにより、表現された物語はさらに奥深いものになり、作家のメッセージやテーマが作品の中に溶け込んだ背景として埋没せずに浮き上がってきて、さらに見る人独自の物語と現象する。
作家、被写体、作品を見る鑑賞者の三者三様の「物語」が相互に絡み合い、共鳴し合ったた結果として新たな「物語」が創作される。この3つの視点をもつかもたないかで、その作品が閉じた私小説的で内省的なものになるのか、もしくは社会に向けて開かれたオープンな性向をもつかどうかが決定されてくるような気がします。
このような捉え直しにより、また別の角度からアートを楽しめるように感じました。