ミセス・ロウのシンガポール/石垣島デュアルライフ

50代から二拠点生活。都会&田舎で暮らす。

アートとは何か?ー技術、スタイル、感情の表出

アートクラス3回目。やっと印象派の模写終了。

 

先生から言われたのは、

 

1.技術はダメ。波はこういう形してないし、遠近法もきちんと表現できてない。小屋の屋根の光の感じはGood Job。

 

2.日本人でこういう絵を描く人は初めて見た。ディテールにこだわりがなく不正確。でも感情は表現できてる。

 

中学生のときにヴァイオリンの先生に言われたのと同じ言葉を40年ぶりに聞きました。

 

当時、私は同じ先生の門下生と一緒に鈴木メソッドの小中学生対象ヴァイオリン・コンクールに毎年参加していたのですが、なにせ他の真面目な子どもたちと違って練習量不足で技術が追いつかない。定番の比較的簡単なバッハのソナタでも、手が小さいこともあってきちんと弦をおさえられなかったりして、一言でいってまあ、「下手くそ」でした。

 

でも箸にも棒にもひっからないわけではなく、毎回そこそこの順位まではいくわけです。なぜかというと、今回の美術の先生に言われたように感情の表現ができたから。

 

簡単な無伴奏パルティータのフレーズなんか弾かせたら、けっこう自信あります、私。自分で弾きながら泣けるくらい。

 

しかし、当然それだけでは見込みがないので、中学生になって楽典の勉強を初めた頃には(先生が自発的に無料で教えてくれた)先生から、「ヴァイオリンはムリだけど、声楽だったらそれほど技術が必要ないのでいけるかもしれない。東京の音大付属高校の声楽家を受験しなさい」と言われて、一時ソルフェージュだのコンコーネだの毎日歌ってました。

 

結局受験はしませんでしたが、そんなものかなーと思ったのを覚えています。

 

今回も同じ。恐らく、というか決定的に、私には絵をうまく描く才能はないので、練習を重ねて多少上達したとしても、確実にレオナルドダビンチやフェルメールにはならないと思います。ただ、先生方に言われる通り、感情の表出に対する自信は若干あり。

 

あとは技術力がなくてもそれなりにみえるスタイルをみつけて、それを感情が表現できるくらいに昇華させていくことなのかなーと考えるこの頃。

 

いわゆるアートってみな同じなのではないでしょうか?

 

天才的にうまいヴァイオリニストが最高のヴァイオリニストではない。

 

例えば、五嶋みどりさんは確かにプロの中でも群を抜いて素晴らしくうまいのですが、だから彼女のヴァイオリン聴きたくなるのではない。あの切なくむせび泣くみどり節の音色を聴きたくて、みなコンサートに行ったりCD買ったりするわけです。

 

晩年のアイザック・スターンなんかもっとすごかった。

 

亡くなる1年か2年前の香港公演を聴いたのですが、正直言って曲に指がついていかず、音もリズムもはずしまくりでした。しかし、その音色から立ち上ってくる何とも言えない人生の達観や澄みきった明るさが聴衆の心を癒し、音楽とはこういうものだったのかということを教えてくれました。このコンサートは一生私の記憶に残るはずです。

 

とりあえず、模写の現物を見てAIが絵を描いても私の描いたようなものには絶対にならない自信がありますので、オリジナリティという点ではAIに勝ってるかもしれません(笑)。精進あるのみですね。