ミセス・ロウのシンガポール/石垣島デュアルライフ

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マエストロ、ラン・シュイとシンガポール交響楽団最後のコンサート

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ラン・シュイ指揮シンガポール交響楽団によるラフマニノフ交響曲3番

1月25日(金)、22年間シンガポール交響楽団(SSO)の首席指揮者をつとめたラン・シュイのお別れコンサートがEsplanade Concert Hallで開催されました。

 

曲目はマーラー交響曲2番。

 

国内外から集めたソロ歌手や150人近くの合唱団をはじめ、ホルンやトランペット、パーカッションなど管打楽器も普段の倍以上の人数で、マエストロの最後の演奏を飾るにふさわしい曲目、構成。演奏そのものもこれまでのラン・シュイとシンガポール交響楽団の地に足のついた歩みを感じさせる豊かで力強いものでした。

 

ラン・シュイは1957年中国杭州市生まれの62歳。wikiによると両親は医者と銀行家だったとのこと。文革が始まったのが1966年で彼は9歳、その後10年間も続く狂気と暴力の中で、知識階級の両親をもちヴァイオリンに才能を発揮した少年がどれほどの困難を乗り越えてアメリカに留学することができたのか、推測するしかありませんが、決して平坦な道のりでなかったことは明らかでしょう(現在のラン・シュイの国籍はアメリカ合衆国のようです)。

 

いっぽうのシンガポール交響楽団の設立は1979年。日本では高度経済成長がすでに終了し先進国の仲間入りを果たしていましたが、当時はまだNIEsと呼ばれた新興工業国の台頭前夜。設立準備時のシンガポール国民の1人あたりGDPはUS$2,500とまだまだ発展途上にある小国でした。それでも自前のオーケストラにかける音楽愛好家たちの熱意と、多くがイギリス留学経験をもつ政府要人たちの全面的バックアップを受け、Victoria Concert Hallという植民地時代の1905年建設の数百人規模の小さなコンサートホールを拠点に何とか創立にこぎつけます。

 

現在ほとんどのコンサートが行われているEsplanade Concert Hallは2002年の竣工。1970年代の日本にはすでにNHKホールや東京文化会館をはじめ数々の本格的なクラシック音楽向けのコンサートホールがありましたし、86年には最新鋭の音響設備を備えたサントリー・ホールが開館。同じ新興国であった台湾では1987年に、香港でも1989年には本格的なコンサートホールが誕生していますので、シンガポールは10年以上遅れていたといえます。

 

また、アジアの交響楽団では設立当初、海外から実績のある指揮者を音楽監督に迎えるケースが多いにもかかわらず、シンガポールではギリシャ国立オペラの主任指揮者をしていた自国民のチュー・ホイを招聘して初代音楽監督に任命。

 

記念すべき1979年1月の最初のコンサート時には、団員41名のうち13名がシンガポール人で、その中には現在も共同コンサートマスターとして現役でバイオリンを弾いているリンネット・シーがコンサートマスター代理として含まれていました。彼女は21歳でオーケストラに参加する前にはヤマハ音楽教室でピアノとバイオリンを子供たちに教えていたといいますから、当時このオーケストラがどれだけ若い未経験なメンバーで構成されていたかが推し測れます。

 

そして18年後、チュー・ホイの後任として招聘されたのがラン・シュイ。ボストン大学卒業後、バーンスタインらと数々のアメリカのオーケストラで指揮をしてきたとはいえ、まだまだ無名の存在でした。しかし、SSOの主任指揮者として国内外で数々の実績を積み重ね、コペンハーゲン・フィルや国立台湾交響楽団などの指揮者としても活躍します。

 

今回の引退の理由は「もっと子供たちと過ごす時間をもちたい」だそうですが、22年間国内外でのコンサートに加え、他の交響楽団の指揮までこなすハードスケジュールに耐え、常に音楽のことを考えていたという仕事に対する真摯な姿勢は、彼自身とSSOを世界的に評価されるレベルに引き上げました。事実、私が定期的にコンサートに通った最後の9年間だけをとっても、年を追うごとに深まっていく音楽への理解と技術的な進歩に感銘を受けたものです。

 

ここ最近ではお別れコンサートのちょうど1週間前にリー・シェンロン首相も臨席して開催されたSSO40周年記念コンサートでのベートーヴェン交響曲7番は、私がこれまで聴いた数多のオーケストラ演奏の中でも最高の演奏の一つでした。

 

力強い躍動感、あらゆる感情を内包しつつも美しい希望を語る音色、そしてオーケストラのメンバー1人1人がたっぷりと自分の音を演奏しながらも、その総体がシンガポール交響楽団という揺るぎない一つの音の塊となり、聴衆の魂の中に入ってくるのでした。

 

 先立つものもないのに何とかオーケストラを作ろうと奔走した40年前の設立メンバーたち、ヤマハ音楽教室を辞めて最初のコンサートに参加したリンネット、そして文革の時代を音楽をあきらめずに生き延び、SSOと共にアジアを代表する指揮者の一人となったラン・シュイ。

 

彼らの一生を費やした努力の成果が、日本という外国から縁あってこのシンガポールにやってきた私の胸を熱くしてくれたのかと思うと、感謝せずにはいられません。

 

マエストロが去った後のSSO後任音楽監督はまだ決まっていませんが、夫と私は2016年にグスタフ・マーラー指揮者コンクールで優勝したカチュン・ウォンをニュールンベルグ交響楽団の契約終了を待って招聘するのではと睨んでいます。

 

ウォンもまた、公団住宅育ちの庶民の息子で小学校から始めたブラスバンドがきっかけで音楽にめざめ、シンガポール国立大学入学まで正規の音楽教育を受けたことがなかったという極めて異例な経歴の持ち主。指揮のスタイルや音楽理解も独特です。

 

日本でも頻繁に客演しているようですが、若手を代表する指揮者の一人として世界中で注目されており、実際にSSOの主任指揮者になるかどうかはまだわかりませんが、毎年のように里帰りしてSSOの指揮をつとめているので、こちらもたいへん楽しみです。

 

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CDにサインしてもらい、マエストロと記念撮影。

 

こういうサービス上手なところもSSOの魅力の一つです。